伊藤若冲は、2000年代に入ってから世界的にも爆発的な人気を誇っている江戸中期から後期にかけての絵師です。代表作には動植綵絵、菊花流水図、鹿苑寺大書院障壁画・葡萄図など他多数残っております。若冲は豊和堂にとって欠かせない存在で、豊和堂では伊藤若冲の作品を多数コレクションしている細見美術館とともに若冲の復元に取り組んでいます。
若冲は1716年錦市場の青物問屋の長男として生まれました。海の幸や山の幸に囲まれて過ごし、幼少期から画才を発揮。10代半ばを過ぎたころに狩野派の流れを汲む大岡春卜(しゅんぼく)に師事したとされます。しかし狩野派の厳しい教えにはなじめなかったようで、中国からもたらされた宋元画(そうげんが)に惹かれ、熱心に模写して技術を習得しました。
若冲が23歳になったころ、不幸にも父が急逝。そんな日々の中、学芸全般に秀でた博識の大典禅師(だいてんぜんじ)と出会い、画才を認められたことで、若冲は禅に帰依(きえ)していきます。そして、40歳になったころ、次第に家督を弟に譲って、相国寺へ移り住み、絵師として身を立てることを目ざすようになりました。
若冲はほどなくして、独自に磨いてきた画才を発揮しました。そこで最高級の岩絵具をふんだんに用いて動植物を丹念に描いた花鳥画「動植綵絵(どうしょくさいえ)」に取り組みます。
その後、相国寺で公開された「動植綵絵」は京の人々の度肝を抜き、絵師・若冲の名は広く知れ渡るようになります。さらに、相国寺に寄進したことによって、「動植綵絵」は大切に守られ、現在まで伝えられてきたとされています。
50代になった若冲は江戸で盛んになっていた版画や、水墨画に才を発揮していますが、50~60代の作品数はそれまでとくらべて激減しています。理由は錦市場の町年寄(まちどしより)という要職についていたからです。意外にも若冲は、今日の錦市場の繁栄に一役買っていたのです。70代に入った若冲は天明の大火によって自宅を焼失。文人で収集家・趣味人として名を馳せていた旧知の友、木村蒹葭堂(けんかどう)を頼って大阪へ向かいます。何もかも解き放たれた若冲はここからさらに斬新な作品を生み出すこととなります。
そして、70代後半から世俗を逃れて石峰寺で隠居を始めます。米と絵を交換するという意味の号「斗米菴(とべいあん)」そのままの生活を送る若冲は、作画三昧の中でユニークな作品をたくさん描き上げ、寛政12(1800)年、85歳でこの世を去りました。